2018.04.24

大人の趣味の為のライフスタイルマガジン「IN THE LIFE(イン・ザ・ライフ)」

『やさしい翼』東田トモヒロ、自由な旅の歌

ギターとサーフボードを車に詰め込んで、東田トモヒロが巡るふたつの島、種子島、屋久島。その景色の中では、波ですら神さまの所有物で、針をなくした腕時計は、しかめっ面でお日様を眺めている。東田は歌う。 「まだ間に合うさ、ゆっくり行こうよ」と。そのメロディーのどこかに、 波の音を響かせながら。のんびり行こうじゃないか、背中の羽を思いきり伸ばしてさ。自由はいつだって、こころの中にある。

神さまの島と、旅するメロディー

サーフィンがスタイルならば、音楽だってそうだ。彼の歌は唯一無二。私は東田のような歌い手を他に知らない

 夏は終わろうとしていた。秋は確かにささやくのに、私はビーチサンダルを脱ぐことを拒んでいた。熊本県。山と田畑に囲まれた静かな場所に東田トモヒロの暮らしはあった。ユウ、レン、タオ、3人の子どもたちが家のウッドデッキで母に頭を丸坊主に刈られていた。男三兄弟。好奇心に忠実な兄たちの背中をタオが夢中で追っていた。東田は車に旅荷を積んでいた。ギターにキーボード、マイクスタンド、ランプとスケートボード、ウェットスーツ、珈琲セット、そしてサーフボードを5本。全てがきっちりと収まった。車は完全に旅仕様だった。
 東田トモヒロと旅をしませんか? Blue.から連絡をもらったのは春先のことだった。三ヶ月間の旅を終えたばかりで、今年の残りは家族と過ごそうと決めていたのだが、思わずその場で快諾してしまった。東田とはお互いの知人を通じて何度か面識があった。あくまで、偉大なミュージシャンと無名の映像作家として。いつか一緒に旅をしてみたいと期待していた。そのチャンスが突然やってきた。この縁は掴むためにやってきたと感じた。

屋久島の偉大な自然を前に、少しの緊張感と大きな開放感。神様がくれた波という贈り物。人はそれを自由と呼ぶ

 午前4時。九州自動車道を鹿児島へ向けて南下した。7時半のフェリーにエントリーする必要があった。空が群青色に明け始めると左右を山に囲まれているのが分かった。時折、濃い霧が現れた。いくつものトンネルを抜け、フェリー乗り場に到着した。トラックや商業車と一緒にフェリーに乗り込むと、東田は甲板から船のゆく先を眺めていた。穏やか海。トビウオが海を割るフェリーから逃げるように飛び交った。船はいい。飛行機よりよっぽど浪漫がある。「あれが九州最南端の佐多岬。あれを越えると外海に出るんだ。船が揺れるから中に入ろう」。東田の言った通りだった。外海のウネリをまともに受けると船は大きく揺れだした。横揺れからやがて縦揺れに変わり胃を浮かせた。窓の外では海面が切り立った山脈のように荒れ、船にぶつかった波が真っ白なしぶきを上げて窓を覆い尽くした。「車のサイドブレーキ引いたっけ」。東田が呟いた。気分が悪くなってきた。到着までの3時間半が地獄に思えてきた。早いとこ寝てしまおう。船は上下に大きく揺れつづけた。何度も寝返りを打って、なんとか眠りについた。旅はこうして幕を開けた。

意識があるかのような深い森を抜けてポイントへ。島全体がパワースポットのように濃い命に溢れている

 種子島に到着した。物流のトラックに挟まれてフェリーから降りた。東田の到着を待っている2人の男がいた。竹林直紀(ナオさん)とフォトグラファーの久米満晴(ミツさん)だった。ナオさんは東田が翌日ライブをするバー『バンブーフォレスト』の主人で、長い髪をレゲエのタム帽の中に束ねた男。ミツさんはウミガメの写真家としても有名なフォトグラファーだ。2人とも東田とは10年来の付き合いで、東田が種子島を訪れる時はいつも彼が一緒だった。3人は久しぶりの再会を祝った。「とりあえず海に行こうか」。ナオさんが言った。「そうだね、着いていくよ」と東田はキャンピングカーの後を追って走り出した。山の隙間からシャーベットのようなトロピカルブルーの海と真っ白な砂浜が見えた。渇いた日差し、青い空が時の流れまで緩くした。夏の中に再び飛び込んだのだ。
 宇宙センターの隣のビーチへ着くと、腰ほどの波が順序良く割れていた。陽も暮れかけていた。東田とナオさんはタッパーに着替えてロングボードを車から引っ張り出した。波はつぎつぎに生まれた。東田はくるりとボードをひるがえすと、そのひとつを追いかけた。波の背に追いつくと、ふと見かけた友人を訪ねるように「やぁ」と挨拶をし、そっと飛びのった。そして「また、こんど」と言って分かれた。夕日がそれを眺めていた。
 翌朝、ナオさんのお宅で目を覚ました。淡い紫色のブーゲンビリアが朝日を浴びていた。土鍋で炊いたご飯と目玉焼きに味噌汁の朝食を中庭でいただいた。長男のマハトがランドセルを背負って学校へ出発した。それを見送った東田は、子どもが学校にいくのに大人が何もしないわけにはいかないと、ギターを弾いた。私はしばらくそれを聴いていた。どうしてこうも自由なのだろうと思いを巡らせた。誰もが自由を求めるのに、手に入らないのはなぜだろう。なぜ彼のメロディーはこんなにも優しいのだろう。ナオさんが珈琲を運んできた。「これ飲んだら波でも見に行こうか」。車でいくつか波を見て回り、ホテル前という名のポイントに落ち着いた。波は今日もメローに迎えてくれた。東田は緑のフィッシュボードを抱え、ナオさんと共にパドルアウトした。大人は遊ぶ時間だ。

歌うことは、翼であり生きかた

「morning sun」
yesterday 洗い流して 星は消えた
最後に歌った歌も 風に変わった
波のメロディだけ today
待ち合わせ場所は morning sun
yesterday もう少しだけ そばにいたかった
最後に見たきみは 笑ってた
夢のメモリーだけ today
胸に残ったのは morning sun
誰のためでもない旅を続けたい 虹色に輝いて
花の香りのよな風になりたい この海の彼方まで
morning sun 
good morning sunshine

 バンブーフォレストは、縦に細長い種子島の中央、中種子町の商店街の一角にあった。店に続く階段にはフライヤーが隙間なく貼られていた。レヨナ、ケイソン、カズ、東田トモヒロ。シーンを象徴するミュージシャンたち。夜になると客でバーはいっぱいになった。「バンブーフォレストにようこそ、東田トモヒロで
す」。ライブは始まった。ギターひとつ、声ひとつ。人の夢の痛みも悲しみも、弱さも諦めも、優しく受け入れる歌だった。曲が終わるたびに大きな拍手が鳴った。なんてことだ。声に、メロディーに、その言葉にとても感動した。こころに直接染み込んでくるようだった。カメラを置いて全身で酔いしれたかった。どうしてこうも自由なのだろう。東田トモヒロにとって歌うことは、翼であり、生き方だ。ゆえに、アーティストなのである。パーカッションにナオさんが加わり、ライブは果てなくつづいた。

 午前4時。昨夜のライブの余韻がまだ耳に残っていたが、出発の時だ。2つの台風が発生。そのひとつが四国を北に抜けようとしていた。屋久島で波を当てるのは至難の技だった。おまけに大潮。ウネリが残っている朝のうちに上陸しておく必要があった。東田が荷物を詰め終わり、車のトランクを閉めると、夜空の星に気がついた。そういえば、夜空を見上げるのはこの旅で初めてのことだった。星屑、とまではいかないが、見惚れるには十分だった。ややあって東田が言った。「オリオン座がもうすぐなくなるらしいよ」。
 5時のフェリーに乗りつけた。船は闇で満たされた海を進んだ。私たちは休憩室で眠りについた。海を見に行こうとは誰もしなかった。やがて到着のアナウンスに起こされると、車に乗り込んでフェリーが波止場へ着岸するのを待った。船内の駐車場は錆びついた鉄の塀に囲まれていて、景色は見えなかったが、天上からは屋久島の深く濃い緑の山々が高くそびえているのが覗いていた。黒い雲が、山頂を覆い隠していた。島そのものがひとつの巨大な生き物のようだった。

出会うべき人とは、出会うべき時に

 新たな出会いがあった。数人のローカルが東田の到着を迎えてくれたのだ。屋久島出身の渡邉大臣(ダイジン)と、HONUというアクセサリー屋を営む片山勝仁(カタヤン)がいた。彼らはこの時間帯でサーフィンをするのにベストな場所を知っていた。屋久島は車で一周4時間ほどの大きさで、島の中央部が高峰になっており、島全体が円錐の形をしている。フェリーが到着した宮之浦から田代海岸へは30分ほどで着いた。黒い溶岩石で覆われた海岸だった。波は遠目で頭半以上はあった。水量が多く、インサイドには巨大な溶岩石が剣山のようにそそり立っていた。ダイジンとカタヤンはウエットに着替え、ワックスをガリガリとやっていたが、東田は乗り気でないように見えた。種子島では緩い波がいつでも迎えてくれた。気分はメローそのものだった。そこへ来て、屋久島は自然の気まぐれを見せつけてきた。ファンウェーブとは程遠い。しかし東田は果敢にもフィッシュを抜き、パドルアウトした。私は溶岩の上からその姿を映像に収めたが、ミツさんはためらうことなくハウジングを持って東田の後ろを泳いでいった。水中フォトグラファーを心の底から尊敬する。3人の誰かがテイクオフするのを待った。ひたすら待った。しかし30分経たないうちに全員がスープに乗って上がってきた。屋久島の洗礼だった。
 この日、東田がライブを行う『ジャングルキッチン』は、町外れの畑の中にあった。入口には二本のガジュマルの木が大きなアーチをつくっていて、ドレッドヘアのようなヒゲがのれんの役割を果たしていた。増築に増築を重ねた民家がコの字型に並び、無国籍の風情を醸し出していた。厨房には料理をする女性たちに混じって、おおきな竹笠をかぶり、インドの民族衣装クルタを着た男が玉ねぎを刻んでいた。通称ダッちゃん、この店の主人だ。18歳でドロップアウト、世界を渡り歩いた筋金入りの旅人は、この島に辿り着き、根を下ろした。その理由をこう語った。「平和の反対は戦争ではなく、空気の強張り。互いの違いを認め合うことでそれは緩くなるはずだ。ここならその輪を広げられると思った」。店の外では仲間たちが流木やモルタルを使い建物を改装していた。ここは自由と放浪の思想のもとに集まった人々の巣であった。
 夜になると島のどこかからかたくさんの人が集まり、あっという間にフロアはいっぱいになった。「ジャングルキッチンにようこそ、東田トモヒロです」。9月11日のこの日、東田にはどうしても歌いたい歌があった。イマジンだった。ピアノが始まり、メロディーが流れると拍手が起こったが、すぐにやみ、静かに耳を傾けた。誰もがそのひと時に酔いしれた。屋久島の夜が宇宙につつまれた。

 翌朝、島のローカルの皆さんと連絡を取り合い、最後のサーフィンをすることになった。ポイントには10人近くも集まった。波は十分にあった。屋久島で毎日サーフィンが出来るなんて奇跡的だとダイジンは言った。透き通った海に光がさして七色に弾けた。ここでは波は神様の宝石だった。それをありがたく分け合った。潮が引くと、一人、また一人、海から上がっていった。東田はその一人一人に沖から手を振った。出発の時が来たようだ。たった4日間の出来事だった。種子島と屋久島だけで400キロ以上を走った。そのぶん、たくさんの出会いがあった。出会いとは本当に不思議なものだ。4日前まで彼らは私のなかには存在していなかった。逆も然り。宇宙の始まりもきっとこんなだったのだろう。安心してほしい、気は確かだ。ダッちゃんの言葉を借りるなら「会うべき人とは必ず会うべきタイミングで会うようになっている」ということだろう。誰かがアレンジした必然なのだ。が、やはり奇跡だ。そして、出会いは別れのつぼみでもあるのだ。ビーチサンダルを脱ぐ時がきた。夏は終わったのだ。

自由になれると信じるのは難しい。だから旅が必要なのだ。東田は今日もどこかで、ゆっくり行こうよ、と歌っている

 パソコンを睨みつける日々がまた始まった。湘南は今日も波がない。ならば原稿と向き合い、この旅を振り返る。日に10杯のコーヒーが唯一の味方だ。私の日常は相も変わらずこんな感じだ。だから日常なのだ。しかし、この旅はひとつ私に大切なものを残してくれた。電話が鳴った。東田トモヒロからだ。福島の保育園に歌を届けに行くという。私はカメラを持ってついて行くことにした。

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