2019.01.18

大人の趣味の為のライフスタイルマガジン「IN THE LIFE(イン・ザ・ライフ)」

BEHIND THE SCENE「偏執狂の見果てぬ夢に共鳴した裏方の誇り」

作者の感性に起因する自由な創造をカスタムの真髄とするなら、Genuineという明確な正解が存在するのが、レストアである。度重なるロングライドや経年で傷んだオールドH-Dを、人知れず再生することを生業とするスペシャリストありき。「この仕事の究極は、修復した事実を悟られないことです─」。整備の技量はもちろん、板金・金属加工のスキルや旧車への造詣を駆使し、同時に可能な限り手を入れた形跡を残さない仕事を美徳とする裏方たちが、膨大な時間を投入して仕上げたナックル元年の1936ELと最終1947FL。経験に裏打ちされた技術と繊細な感性、飽くなき探究心が融合した、我が国のレストア技術の到達点に迫る。

"Restored in Japan"というプライド「1936 H-D EL SPECIAL SPORT SOLO」

 システムエンジニアを生業とする原 健太郎は今回のリフィニッシュにあたり、アッセンブリーを自宅ガレージで敢行した。「当時の純正部品といっても傷みや歪みのあるパーツがほとんどで、それらの修正をKick-Startの本田さんに依頼した。例えばリアフェンダーの歪みはフェンダー自体の修正だけでなく、関連するフレームやクランプ、オイルタンクも同時に見直す必要があった。

 「一事が万事こんな調子で、こだわるともうきりがないんです。パーツを車に積み込み本田さんに修正してもらい、持ち帰ってまた組み付けて。その連続の2年半でした――」。

 1936年にH-Dが採用したレギュラーカラーのひとつ、ベネチアンブルーとクロイドンクリームが印象的なご覧のファーストイヤー・ナックルは、オーナー・原 健太郎の依頼を受けた「Motorcycle Goda」の郷田雅之が、彼の元に集う職人たちと共にフルレストアした1台。

 「当初は46年式を探していたのですが、たまたま36の出物が出て。シャドウグリーンとシルバーに塗られたレストア車で予算内だった。日本に到着後、オープンロッカーで乗っていたところで焼き付かせてしまったのをきっかけに、郷田さんの元でエンジンとミッションをOHして数年乗っていた。以来、調子は良かったのですがブ厚い塗装や細部の粗が気になっていた。その後、フレームのクラックが発覚した際、再レストアを決心しました」。

 本国のレストアラーの間でも、いまだ不明瞭な点が多いとされる1936年式。オーナーの原はその素性をあらゆる手段を駆使して徹底的にリサーチした。現状適合しないパーツを見極めリストアップし、ネットオークションや旧車仲間の協力を得てマッチングパーツを収集。同時にもう1台の愛機1954年式の修理でも世話になり、絶対的な信頼を寄せる名手・郷田に36のレストアを依頼。かくしてこの壮大なプレジェクトは静かに幕をあける。

 蛇足だが、原は古い純正部品の魅力に取り憑かれ、年式を問わずコツコツと収集してきた"パーツマニア"でもあった。7年前にひょんな縁で36を手に入れる前に、すでに1936年式に準ずる純正部品を確保していたのは、プロジェクトの際に大きなアドバンテージになったという。

「10年以上前はまだ'30sのパーツも今ほど高くなくて。実際使う予定もなかったのですが、古いパーツはそれ単体で見ていても飽きないから。その後急激に市場から消え値段も跳ね上がったから、その点は運が良かった」。

情報交換やパーツを譲ってもらった旧車仲間の存在も大きかったという原は、江戸川旧車会のメンバーである。

 エイジングと呼ばれる作為的な"ヤレ"に頼らず、かといって既存のレストア車両に見られる"厚化粧感"も皆無。ストレートな車体を彩るこだわりのペイント。この凛とした佇まいは、手付かずの枯れたオリジナルペイントを保持する、希少なサヴァイヴァーにもない美点である。

 「郷田さんをはじめ多くの人の力を借り、徹底的にこだわって仕上げた1台です。足掛け2年半、完成後しばらくは廃人のような気分でした」

と笑う原 健太郎。旧車狂の意地と、メカニックやエンジニアの技術の結実。純国産のレストア車両、ここに極まれり!

WALK ON THE WILD SIDE.

旧車専科やカスタム屋を影で支える職人たち。

表舞台には決して姿を見せぬ裏方のたゆまぬ努力と飽く無き探究心から生まれた鉄拳。

36ELと47FLの再生プロジェクトの核となった郷田雅之。H-Dの修理に人生を捧げた古参の美学とは──。

郷田雅之 (MOTORCYCLE GODA)

15歳で手に入れたダブルエル。

 東京の外れのインターを降り、山部へ伸びる国道でさらに西へ。都心から高速で約1時間。町外れの緑深い地にその店はあった。H-Dひと筋40年超の郷田雅之が営むMotorcycle Godaは、ヴィンテージH-Dの修理を手掛けるスペシャルショップ。あらかじめいえばホームページはなく、フェイスブックもインスタグラムのアカウントもなし。仕事のやりとりはいまだ電話とFAXという、昭和感ほとばしる町工場である。 

 カスタムを売りにする店ではないので、ショーの類への出展もメディアへの露出もない。しかし下手なプロモーションをせずとも仕事が客を呼び、その客が新たな客を集めているのは想像に難くない。その証拠に、全国のプロショップが密かに御用達としている。"一見さんお断り"を公言しているわけではないが、営業はからっきし。修理に徹する裏方を信条とする、叩き上げの職人。かくいう弊誌『ROLLER magazine』も直接話を伺うのは初だが、過去バックナンバーに掲載された名車で、その実郷田の手が入った車両は枚挙に暇無し。

 「ボクは昭和30年生まれ。10代の頃は警視庁がまだWLを使ってた。H-Dは戦後1960年から輸入再開されたはずだけど、当時の国産バイクは黒がほとんどでね。反面その頃に新車販売されたDuo-Glideなんて、とてつもなく綺麗な色だった。池袋で印刷屋を営んでいた叔父貴もH-D乗りで、少なからず影響を受けたね。

 とにかく寝ても覚めてもH-Dで、15のときに新聞配達して貯めた金で、1942年式のWLを手に入れた。当時車検付きで10万、安い買い物じゃなかった。以来もう夢中で乗り回したね。ただ、ほかにH-D乗りなんていないから、ずっとひとりで走っていた。そのうち地元の福生に駐留していたバイク好きの兵隊と顔見知りになって、本国のH-Dのハナシを聞いたり、『Easyriders』 なんかの雑誌をもらったり。とにかく日本には情報がなかったから聞くこと全てが新鮮だった」。

Walk On The Wild Side.

 そんな郷田が若かりし日々、H-Dと同じく情熱を注いだのがR&Rだった。WLを乗り回し、バンドに明け暮れていた彼は、当時その名を轟かせていた原宿を拠点とするMCと出会う。

 「クールスはまだバンドとしてデビューする以前、ヒデさん(※佐藤秀光氏/クールス Dr)を通して。まだヘルメット着用の義務もなくヤンチャもしたけど、自由でいい時代だった——」。

 ハンドチェンジのWLを手足のように操る当時の郷田は、クールス界隈のバイク乗りの間でも別格の存在だったという。そんな最中、仲間の多くはバンドや芸能の道へ進んだが、彼はバイクのメカニックを志す。若きH-D狂の情熱は、とどまることを知らなかった。

 「ミルウォーキーのH-D本社に働かせてくれと手紙を送ったんです。当然返事はなし。でも懲りずに手紙を送り続けたら、本社のマネージャーから返信が届いた。この手紙を持って1度来なさいとね」。

かくして1975年、ハタチの郷田は見果てぬ夢を胸に太平洋を渡る。

 「まだ成田の空港が建設中で、羽田からLAに飛んで、そこからグレイハウンドに乗り、シカゴ経由でミルウォーキーへ向かった」。

 結果的には"外国人採用の枠なし"という理由から、就職の夢は叶わなかった。だが極東から訪れた若き日本人に、担当者は社内見学を許可するパスポートをくれた。

 「工場のどこを見てもOKだと、AMFとプリントされたパスをくれた。結局3日間ミルウォーキーにいたのですが、後に発売されるFLTの試作がすでにあったのを覚えています」。

「アメリカにも送って買い付けの際に乗り回した。一度アメリカのど真ん中の片田舎で故障して。近くのH-D屋に世話になったんだけど、そのまま1ヶ月ほど働かせてもらったり――」。15歳で手に入れたWLが今も手元にあること自体驚愕だが、昔バナシのスケールも半端じゃない。

3日かけて書き写した純正パーツリスト。

 15歳で手に入れた42年式のWL。壊れたら修理を繰り返して日本中を走破したという郷田だが、修理技術はほぼ独学で習得している。まだH-D専門店はなく、リペアに必要なツールもノウハウも確立されていなかった時代。それでも熟練の修理工たちは試行錯誤を繰り返し、走れる状態にリペアしていたという。そんな先人たちの手元を目で見て学ぶこともあった。

 「どうしてもわからないことがあると、外車ディーラーのメカニックに教えてもらったり。陸友さんや上野の小川屋さんでよく世話になった。純正パーツリストを見せてくれた時なんかもう嬉しくて、3日通って全て書き写したよ。コピー機があれば5分で済むでしょう(笑)。でも手を動かしたぶん頭には入ったよね」。

 70年代末期、福生の自宅ガレージから始まったメカニックの歩みは、決して順風満帆ではなかった。そもそも街中でH-Dを見ること自体が稀な時代からH-D専科を掲げた理由は、曰く「H-D以外興味がなかったから」。 

 そんな郷田の店の噂を聞きつけてやってきのは、クールスを通して知り合ったバイク乗りや福生の海兵隊だった。

 「車検や修理はもちろん、客が持ち込んだキャブやマフラーを付け替えたり。言われた仕事は何でもした。海兵隊のほとんどはシャベルで、80年代に入ってもナックルなんて数えるほどしか見なかった。まだインターネットなんてないから、車両の買い付けにしても情報から現地調達。LA に着くと、まずはコンビニに行ってサイクルトレーダーを買って片っ端から電話。そのあとにUホールに行ってトレーラーを借りて。

 まだパスポートや国際免許でも融通が効かず、さらにクレジットカードもなかったから、結局現地で免許を取得した。アメリカでは身分を証明するIDや免許がなければビールすら買えなかった。その後アメリカに住む遠縁の叔母に協力してもらい、ソーシャルセキュリティも取ったので、仕入れや輸入が格段にスムーズになった——」。

世界に誇るべき職人の技。

 世界のカスタムシーンを席巻したハイテクブームが過ぎ去った後、反作用のように古き良き時代のヴィンテージH-Dやオールドスクールなチョッパーが見直され、幾年過ぎ。世のトレンドを横目に、H-Dの修理に変わらぬ情熱を傾けてきた郷田だが、旧車人気が高まるにつれ、同業からパンやナックルのエンジンの修理依頼が増加。さらにその評判を聞きつけたマニアからレストアの依頼が入るようになった。

 「うちで扱う車両がヴィンテージ中心になったのはここ10年ですが、中には本当に素晴らしい車両を触らせてもらう機会もあって。今回取材してもらった36ELと47FLも甲乙付けがたい。オーナーや仲間と共にじっくり仕上げた思い出深い車両です——」。

 表舞台に上がることのない裏方たち。しかし彼らの存在無くして、半世紀以上前に生産されたバイクを末長く味わうことは困難だろう。我々がこうして旧車の楽しさを甘受できるのは、いつの時代も粛々と修理・レストアに真摯に取り組み、そのスキルを磨き上げているメカニックの存在に依るのだ。

 1942年式のベビーツインと常軌を逸したH-Dへの情熱で、昭和から平成を走り抜けた叩き上げのメカニック。その哲学は彼に師事した後輩にも継承されている。郷田雅之を筆頭とする36ELと47FLのプロジェクトは、世界に誇るべき日本のレストア技術の到達点である。マニアの情熱と職人の技が、アメリカの文化遺産を次世代へ継承する——。

 組み付けの精度が露呈する俯瞰図もこの通りほぼストレート。オーナーの原 健太郎がこのプロジェクトで掲げたこだわりの中でも、部品の品質とそのフィッティング精度は、特にシビアにこだわった箇所。Kick Startの本田正俊が、古いパーツの修正を。それらをオーナーがミリ単位にこだわって組み付けている。

目の肥えたマニアを唸らせる匠の技「1947 H-D FL SPECIAL SPORT SOLO」

 1936年から12年にわたり生産されたナックルヘッド、その最終年式のFL。くすみなく磨き上げられた漆黒のフォーティセブンは、神奈川在住の久岡祐三の愛機。東京稲城の旧車専科Freedomで手に入れて以来、大切に乗り続けていた。アメ車からH-Dの世界へ入り、EVOから49年のハイドラを経て47FLに行き着いたという久岡は、目下もう1台の愛機49WRでAVCC参戦する生粋の旧車狂だ。

 「まだ街で旧車を見ることなんて無かった時代。福生にあったMotorcycle Godaにはパンやナックルが出入りしていた。当時ボクはEVOに乗っていたのですが、動く旧車が見たくて郷田さんの店を訪ねた。もう25年ほど前のハナシです」という久岡が、お気に入りの47FLのレストアを決心したのは、ほかでもない前述の36ELを目の当たりにしたからだった。

 「郷田さんのところで仕上げられた原さんのサンロクを見て、衝撃を受けた。自分の愛機を含め、アメリカで仕上げられたレストア車の佇まいや質感には、ずっと釈然としないものを感じていたんです。でもあのサンロクにはそれが無かった。もちろんオリペイやオールペイントの美しさは認めるところですが、旧車乗りの選択肢としてこの塗装ならアリだと確信したんです」。

 かくして郷田の元に持ち込まれ、リペイントをメインとするレストアが施された久岡の47FL。クリッパーブルーのペイントは、36ELプロジェクトで塗装を手掛けた益子智樹が最もこだわる"黒"へ。同時にオーナー自身がコツコツと集めていたアクセサリーパーツを装着。細かなところでは広げられていた各所のネジ穴を修復し、主要なボルトを1943年よりH-Dが純正採用したChandler Productsに統一。配線処理も当時に習って修正するなど、ディテールの品質が徹底的に煮詰められている。

「OHの腕はもちろんですが、郷田さんは純正ボルトや配線処理など旧車に関する本当に細かい箇所の知識も群を抜いていると思います」。

 70年代から数えきれない数のヴィンテージを触り、経験として蓄積した知識。郷田雅之の仕事は、目の肥えたヴィンテージフリークを唸らせる。

アップライトなハンドルバーは、Flanders No.0で同社の3.5ドッグボーンライザーを介して装着される。トリプルライトもさることながらバンパーやオーナメントで飾られたフロントフェンダーも実にゴージャス。ボルトや配線処理にもこだわるエンジンの色気たるや!

威風堂々たる佇まいの最終ナックル。個々のパーツのクオリティと仕立ての良さが、この凛とした佇まいを実現する。ウインドィールドやシート、サドルバッグも年式相応のH-D Genuineを装着。

名工・郷田の唯一の愛弟子。

東京小平のKick StartはH-D専科のリペアショップ。

オープンして3年経つがいまだ看板らしきものはなし。

しかしふらりと立ち寄れば、いつでも工場にひとり、不調抱えたH-Dと対峙する姿があった。

本田正俊 (KICK-START)

 長崎出身の本田正俊が上京後、数件のH-D屋を渡り歩き、郷田雅之に師事したのは7年前。

 「東京に出てきて数件のH-D屋で使ってもらい、新旧問わず様々なH-Dを触らせてもらいました。車検整備からオーバーホール、カスタムやレースのサポートもやらせてもらいましたが、職人として修理の技術をしっかりと身に付けたいと思うようになり、郷田さんの元で修行させてもらいました」というメカニック。

 「郷田さんの古いH-Dに対する造詣の深さは計り知れない。知識を口にしないのでなおさらです。ネットや書籍がこれだけ揃った今でも、旧車には不明瞭な点が多いのですが、郷田さんは大抵正解を知っているんです」。

 H-Dに向き合い40年超、多くの旧車を触った経験とそれに裏打ちされた名工の知識と技――、日々それらを目の当たりにした修行時代を、本田はこう振り返る。

 「仕事に没頭している時の集中力は鬼気迫るものがあって、とてもじゃないけど話しかけられません。もちろん普段は温和ですが、それでも頭の中では常にH-Dのことを考えているような人です。いまだに効率よく作業するためのジグを作ったり、60歳を超えてなお研究熱心。あの情熱は心から尊敬します。郷田さんの元で働かせてもらった7年は、自分にとって掛け替えのない財産です」。

 郷田雅之を中心とする2台のナックル再生プロジェクトで本田が担当したのは、主に当時の純正部品の修復だった。

 「朽ち果てる寸前の穴の空いたシートメタルを前に、正直絶望的な気分になることもありました。それでもオーナーの強い思い入れや部品の希少性を考えれば、後には引けない。レストアには知識と技術、そしてそれと同じくらい根気が必要だと思う。そしてどれだけ手をかけても、それを他者に悟られたらアウト。何をしたのが気付かれないのがいい仕事です」。

 手塩にかけた2台のナックルヘッドを前に、本田はこう続けた。

「サンロクの原さんもヨンナナの久岡さんも、目の肥えたマニアで知識も豊富。当然求められる仕事のレベルも半端ではないんです。本当に何度心が折れかけたかわからないシビアなプロジェクトでしたが、H-Dのメカニックとしてこんな貴重な経験をさせてもらい、今は感謝しかありません。我々は技術を売りますが、その能力を引き出すのはお客さんだと思います」。

東京小平の新小金井街道沿いにあるKick Start。整然と整理された工場には、NC旋盤も設置される。

ネクストステージを実現させた"黒"

甲乙付けがたい品質で仕上げられた1936ELと1947FL。

純正度や仕立ての良さもさることながら、両者共有の見せ場はペイントである。

2台の完成度を決定付けるこだわりの塗装とは――。

益子智樹

 旧車に乗ろうと決心し、いざマーケットで物件をリサーチすると、9割以上はレストア車両であることがわかる。ごく稀に純正塗装を保持するBarn Freshなんて出物を目にすることも無きにしもあらずだが、世界的に見ても稀。レッドリストの絶滅危惧種である。

 万が一そんなレアブリードが市場に出没したとしてもそのプライスは……。一般の旧車好きにとってヴィンテージH-D=レストア車という状況の中で、物件を見極めるポイントとは。さらにその佇まいや色気は如何なるファクターに起因するのか。

 米国旧車会AMCAが主催するコンペの場合、エンジン/ミッションから骨格、外装やアクセサリー、配線など状態と純正度及びそれらのイヤーズマッチングの度合で優劣を審査する。当然本国でも純正塗装は高得点の査定となるし、今でこそ経年による"ヤレ""サビ"を嗜むワビサビ的風情や、日に焼けひび割れたペイントを"Crispy"と呼び、価値を見出している節もある。その証拠にアメリカのH-Dシーンでもエイジングペイントは、もはや珍しくはない。

 作為的なヤレを演出するエイジングは、これまでのレストア車に散見される"厚化粧感"のカウンターともいえる。純正度にこだわり、丁寧に仕上げられてはいるが、古いH-Dが本来備えていたはずの色気が失われてしまったケースは少なくなかった。場違いな真新しさをリカバーしたり、リアリティを追求する手段のひとつとして発展したエイジングだが、今回紹介した2台のナックルは、共にエイジング抜きのフレッシュペイント。

 人工的な"ヤレ"に頼らず、どれだけ雰囲気や質感というファジーなポイントを押さえられるか。もっといってしまえば、アンタッチのオリペンと並べても引けを取らない、ネクストレベルのレストアの挑戦だった。目の肥えたオーナーが執念で集めた希少な純正パーツを持ち込み、エンジン/ミッションのOHや、車体の組み上げを手練のメカニックが担当。残すところはペイントだった。最終的な完成度を天と地ほど左右する重責を任されたのは益子智樹。金属加工の職人で、曰く"塗装は趣味"。

 「パンヘッドとWLに乗っていたので、昔から郷田さんに店に出入りしていたんです。自分のバイクの修理や塗装を好きでやったりしてアドバイスをもらったり。純正度の高い貴重な旧車が入庫すると参考に見せてもらった」という益子は以前からレストア車の仕上がり、特に旧車のリペイントに関して思うことがあり、愛機を実験台にトライ&エラーを繰り返していた。

 「プロのペインターにイメージを伝えて仕事を依頼した事もありますが、結局満足はできなかった。でもこれは無理もないハナシなんです。なぜなら、ペインターといっても実際オリジナルペイントを見て、その質感を熟知する人なんていませんから。それに黒ひとつとっても、昔と今では塗料の成分が別物なんです」。

 ある時、益子が積年の悩みである塗装の案件を郷田に打ち明けると、彼もまた長きに渡り同じ悩みを抱えていたことがわかった。

「郷田さんは昔から様々な旧車を触ってきた職人で、その中にはオリペンの車両もあった。当時の純正塗装を知る貴重な参考人なんです」。

 その後、益子は理想の塗料を求めて塗装メーカーに協力を依頼。時間があれば研究所に出向き、調合に没頭した。一方、郷田は店の一角に塗装ブースを確保しただけでなく、フレームの焼き付け塗装も可能な大型の釜を導入したのである。

「まずはフレームの黒を完成させた。たとえ外装がオリペンでも、フレームや各部の黒がダメなら魅力は半減します。黒はレストアの要です」。

 黒を極めた益子の次の挑戦は、原 健太郎の36ELだった。ベネチアンブルーとクロイドンクリームの調色は、オリペンを保持するアメリカのコレクターの車両を参考に調色。相方の平岡敬之と共に挑んだ初のフルペイントの仕上がりは、ご覧の通り。久岡祐三の47FL Blackieもこのコンビの仕事だ。現在益子は塗装を控えたパンヘッドの下準備の最中。そのメニューは初となる60s純正キャンディの再現である。

"益子ブレンド"の塗料により、往時のペイントが見事に再現される。濃度も光沢も別物。塗膜も薄くキャスティングナンバーの立体感が際立ち、ラグの表情も圧倒的に豊かだ。「そんな観点でハナシができるのは郷田さん以外いなかった」とは益子の弁。

Photographs:Kentaro Yamada
Text:Gonz (満永毅)
媒体:ROLLER magazine vol.25

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