2018.12.25

大人の趣味の為のライフスタイルマガジン「IN THE LIFE(イン・ザ・ライフ)」

Vallejo Legends

ホットロッダーの聖地Bonneville Salt Flatsに初めてモーターサイクルを持ち込み、正式にタイムアタックしたパイオニアとして歴史に名を刻んで以来2008年にこの世を旅立つまで、西海岸のシーンを牽引。ノーザンカリフォルニアの街Vallejoを拠点に数々の偉業を打ち立て"Iron Man"と呼ばれたスピードの申し子。その分身ともいえるドラッグスターはNHRAの公認博物館に展示されながら「活躍の舞台がローカルだった」という理由でAMAの殿堂Hall of Fameにはいまだ未加入という不遇のレジェンド。本誌ベイエリア支部の写真家Ken Nagaharaのレポートでその軌跡を紐解いてみたい。

ヴァレホが誇る闘将の軌跡を辿って。

 四六時中モーターサイクルのことを考えていた。

 そして思いついたことを現実化し、完璧を追求した。

 興味のない者には1秒たりとも時間を与えなかったがその世界の住人なら歓迎し、寛容に扱った──。

Indianのレーサーでフラットトラックに参戦するスタン。詳細は不明だが、写真隅の記述によると1951年ベイエリア南にあるHaywardと記されている。

 3年ほど前、Vallejoから北へ30分ほどの田舎町Dixonで開催されたスワップミートで、初めてスタン・ディションの名を耳にした。会場にディスプレイされた彼のドラッグバイク"THE HOG"の異様な出で立ちも、その名と共に脳裏に焼き付く。これが縁となったのだろうか、ボクはその数年後、スタンが生きた街Vallejoへ引っ越すことになった。

 慣れ親しんだ喧騒の街Oaklandから北に1時間ほどの田舎町Vallejoに移り住んで生活するにつれ、ローカルバイカーや地元のH-Dショップを営むオールドタイマーから、スタンの名を事あるごとに聞いた。彼はこの街の住人が誇る名士だった。生前のスタンのショップは袋小路の通りにあったが、その通りは"DISHONG ST"として今も存在する。

 1928年にアイオワで生まれたスタンは、幼い頃から父親に連れられて競馬場に出入りしていたという。この経験が後にレースへの興味に繋がってゆく。第2次大戦中にカリフォルニア州バークレーへ家族で移住するが、その後16歳の時、スタンは初めてのモーターサイクルとして1938年式のナックルヘッドを手に入れる。

 初めてそのナックルに乗った時、スタンはすでにバイク乗りだった先頭をゆく兄に追いつこうとスロットルを開け過ぎ、勢い余って歩道に乗り上げて八百屋の前でバイクから転げ落ち愛機を壊す──こんなエピソードにも、その後レーサーとして大成する男の片鱗を垣間見るが、それ以前から兄ジェラルドのドレッサーに跨るのが大好きでバイクに興味津々だったという。

 戦時中でパーツの入手が難しく、結果3ヶ月掛けてナックルを補修した経験に端を発し、以後60年以上モーターサイクルを触り続けて数々の金字塔を打ち立てるが、当時16歳のスタンには知る由もなかった。その後リペアしたナックルでローカルのフラットトラックを走り出し、18歳の誕生日の前にはいくつものレースで勝つスキルを体得。

 兄ジェラルドと共に少しでも速く走れるようナックルを軽量化するなど、後の伝説の面影が徐々に浮かび上がったのはこの頃。地元バークレーにあったFRENCHY’SというH-Dショップに足繁く通いだしたのも同時期である。

 かくして40年代後半、ハタチになったスタンは自身でエンジンをビルドしMurocや Mojave、Rosamondなどのトラックでバリバリと走り回っていた。すでにStan Dishongの名は知る人ぞ知る存在で、遠方から彼のスピードレシピを目当てに尋ねてくるレーサーも少なくなかったという。そして1950年、スタンは22歳でVallejoに拠点を移すが、その実当時はまだタイル職人として生計を立てており、モーターサイクルに触るのは余暇に限られていた。

 そんなある日、スタンがRosamondのレースウェイにナックルを持ち込み、試走していると、1937年にデイトナビーチで136.183mphというワールドレコードを叩き出した、かのJoe Petraliのナックル・ストリームライナーに遭遇、そのテストライドに居合わせた。最速のナックルの走りを目の当たりにすると、スタンはピットに出向くなり「あのライダーは怖がってスロットルを開け切れていない」と関係者に言い放った。チーム監督のBus Schalerはスタンにこう返す。「お前はもっと速く走れるのか?」。スタンが同じレーサーで160mphを叩き出したのはその直後で、彼はその場でテストライダーとして雇われることに。

 翌年の1951年、SCTA (=SOUTHERN CALIFORNIA TIMING ASSOCIATION)は、初めて10人のバイカーをユタ州ボンネビルのソルトフラッツへ招集する。そのひとりに選出されたスタンは、Bus Schalerのナックルでタイムアタックに挑んだ。1本目の走行でリアシリンダーが破損するも、Bus Schalerが徹夜でリビルドして翌日には走れる状態に修復。2日目には数回のトライで155.00mphという世界記録をメイク! しかしこの記録は翌日にブレイクされたため、H-Dカンパニーはスタンが命を賭けて樹立したワールドレコードをオフィシャルにしなかった。あまりに不名誉なこの経験が、その後のスタンの原動力となる。

スーパーチャージャーを搭載する61ci パンヘッドとそれに跨るスタン。横にいるのはバス・シェーラーでこの時148mphを記録。1951年のボンネビル・ソルトフラッツにて。

スタンの代表作THE HOGは時代とともに進化を遂げていた。多くの写真やドキュメントが親族に受け継がれ、大切に保管されている。50年代前半に撮影された仲睦まじいスタン&ジャッキー。

 1952年、愛妻ジャッキーと念願のバイク屋“STAN’S CYCLE SHOP”をVallejoのRice Streetにオープンさせた頃のスタンは、それまでのフラットトラックやランドスピードレースから、ドラッグレースにギアを切り替えていた。レースビルダー/チューナーとして最も油の乗っていた50年代にスタンが製作したTHE HOGとTHE BURP。

 60年代後半にはレースの最前線から退くも、その頃カリフォルニア一帯で盛り上りを見せていたCustom Bikeの世界に参入する。自身の店を拠点とし、新たにDISHONG MANUFACTURINGというパーツレーベルを立ち上げチョッパービルドを開始する。

 ちなみにステップラバーとステーが一体式となる彼が当時考案したペグは、その後ベイエリアのチョッパージョッキーたちに"DISHONG PEG"と呼ばれて愛用されたが、これによりスタンはミッドコントロールの創始者とも評されている。

 1988年、当時60歳のスタンは35年間掲げたSTAN’S CYCLE SHOPの看板を下ろし、慣れ親しんだVallejoから妻のジャッキーと共にオレゴンへ移り住んだ後も、レストアやリペアをコツコツと続けた。さらにスタンは愛妻ジャッキーが他界した2003年、自らのモーターサイクルミュージアムを開館。オレゴンの美しい海岸線を沿う101号線を通るバイカーたちが訪れ、スタン自身が来場者にクラシックバイクを紹介していたという。残念ながらこの博物館は2006年に閉館、その後アイダホで余生を送るはずが、事もあろうにガンが発覚。そして2008年、家族が見守る中でスタンは80歳で他界する──。

 この特集の取材で、生前のスタンの偉業を間近で見ていたキーパーソンへの取材に成功した。テリー・ハインツがその人で、50年代にスタンにスカウトされTHE HOGをはじめとする彼のドラッグバイクに乗り活躍した人物。ここで今一度特集の扉のモノクロ写真を見て欲しい。出走直前のTHE HOGに跨るパイロットがテリーだ。

 時は1957年、16歳だったテリーは当時バイク乗りの間で話題となっていたスタンの店に、愛機のH-D Model Kで訪ねた。これがその後ドラックストリップで“無敵”と表された名コンビの出会いの瞬間だった。

 テリーの住む街San Rafaelは、Vallejoから見るとサンパブロ湾の対岸だが、バイク好きの若いテリーは事あるごとにスタンの店に通いつめた。ある日いつものように店に行くと、スタンから唐突に「ドラッグバイクでレースしてみないか」と言われた。小柄なテリーは体重約54キロで、自分より20kg軽くバイクの筋も良いテリーに、スタンはドラッグレーサーとしての可能性を見出してた。

 その目論見は正しく、同スペックのバイクで両者が走ると、テリーの方が5〜10%ほど速いというデータが得られた。戸惑いながらも光栄に思いスタンの申し出を了承したテリーだが、当時まだ16歳だったため、スタンは彼の両親に許しを乞う手紙を出したと言われている。この日を境に生まれた名コンビはその後3年ほど各地のドラッグストリップで大躍進を遂げた。

トップにも使用した画像で、当時もレースパンフレットの表紙として使用された。スタンがレース直前までライダーであるテリーの負担を考慮し、重いクラッチを代わりに握り、オフィシャルとストリップを見据える─スタンの人柄を捉えた歴史的な1枚!

20代初頭のスタンと彼の初バイクである1938年式。BobberとChopperの過渡期ともいえるクールなスタイルに刮目されたし。チェッカー柄のタンクはTriumph用か。

 77歳になった現在も、テリーはSan Rafaelのローカルだった。今回取材を申し出ると快諾してくれたが、手術を控えていたため大事をとって電話インタビューと相成った次第。テリーによれば、スタンとは彼が亡くなるまで友好関係が続いたという。

「若い頃のスタンはカントリーやブルーグラスミュージックが好きで、何事にもフェアな人物だった。働き者でPM 9:30まで店を開けていることも常、さらに超の付く勉強家だった。暇さえあれば本を読み漁り、新しい技術や知識を常に探していた。そこから新たなアイデアをひねり出し、研究を重ねて実践する。失敗も多かったが決して諦めない。なぜなら完璧主義者であり、何より誇り高かった」。

 インタビューの最後にテリーは言った。

「スタンはモーターサイクルと関わるために生まれたのさ──」。

 スタンが拠点としたVallejoのローカルやベイエリアのバイカーからも、彼に関する沢山の逸話を聞いた。さらにサザンカリフォルニアに住むスタンの息子ラリーの全面的な協力を得て、伝説の人物像がおぼろげながら浮き上がった。めっぽう人見知りだが、モーターサイクルの話になるとネオンサインが灯る様に目が輝く、そんな男。レースで窮地に追い込まれた時、スタンほど落ち着いた判断ができる人はいないという。

 その一方、Vallejoに拠点を持つ言わずと知れたMCのメンバーがふらりと店に訪れても平気で数時間待たせたという逸話も。じっと待っていたバイカーからも、スタンに対する底知れぬ尊敬が伝わってくる。

 その一方でWALL OF DEATHを見て「オレも乗らせろ!」いって聞かず、さらに初乗りで垂直の壁の上部まで駆け上がったライダーはスタン以外にいないとプロの曲乗り師も舌を巻き、さらに調子に乗り壁の上端から飛び出したという曰く付き。そんなブッ飛びエピソードも枚挙にいとまなし。フラットトラックからランドスピード、ドラッグレースにチョッパー、レストアまで、これほどモーターサイクルを広く深く愛した好きモノが他にいるだろうか。

 少なくともボクは、これほど多くのライダーから尊敬を集める人物を他に知らない──今、スタンが生きたこの町Vallejoで暮らし、アメリカが生み出した伝説をこうして読者の皆さんに伝えられたのは自分自身の大きな誇りだ。機会があればVallejoにも立ち寄って欲しい。DISHONG STの上でアメリカが誇るモーターサイクル・レジェンドに思いを馳せるのも一興だろう。

スピード狂の聖地ソルトフラッツを訪れた後年のスタン。1日で破られて幻とされたが、1951年に彼が世界記録を打ち立てたのは紛れもなき事実。

多くの偉業が生まれた伝説のバイクショップ「STAN'S CYCLE SHOP」

Vallejoに移住後、愛妻ジャッキーと共に初めてバイクショップを立ち上げたスタン。
1952年から1988年までにレーサーからカスタムクラシックバイクのレストアまでを手掛けた名店。

Vallejoで初のショップを立ち上げたスタンは、以後この地で35年間に渡りバイク一筋で生計を立てる。現在もこの建物は現存し、その通りは今だに"DISHONG STREET"。叶うことなら営業中に一度訪れたかった。

 1952年、愛妻ジャッキーと念願のバイク屋"STAN’S CYCLE SHOP"をVallejoのRice Streetにオープンさせたスタン。1960年代の後半にはレースからカスタムシーンに参入。同時にDISHONG MANUFACTURINGというパーツレーベルを立ち上げチョッパーをビルドした。ブレーキレバーやスプールハブ、クラッチ/シフターレバー、スポーク、ライザー、トリプルツリー、ミニディスクブレーキなど、オリジナルパーツのラインナップは多岐に及ぶが、中でもエクステンドされたスプリンガーは白眉。このフロントフォークはつるしの他にカスタムオーダーも可能だだったと言われているが、生産数は少なく今や極めて希少なカルトパーツといえる。

 70年代中期をピークとするチョッパームーブメントの後、スタンが注力したのは様々な旧車のレストレーションだった。中でも1869年に3台のみ製造されたMarksは有名で、その他にも1903年のIndianやSteve Mcqueen所有の1929 H-D DL、1934 Crocker Speed Racerなど名だたるクラシックバイクの復元を手掛けている。

 本誌でもお馴染み、Vintage Dreamsの鬼才ビルダーRyan Grossmanがデイリーライドとして足にするナックルに見ることができる。このライアンのチョッパーにはペグやブレーキもDISHONG MANUFACTURINGのプロダクトが装着される。蛇足だがライアンが復元させたDean Lanzaの代表作Quicksilverに装着されていた独立吸気式シリンダーヘッドは、スタンが手を加えたものだった。

スピードモンクの分身。

多くのレーサーを仕立てたスタンだが、その代表作はTHE HOGだ。

N.H.R.A=National Hot Rod Associationの公式ミュージアムにも展示された米国ドラッグレース界が誇るレガシーを紹介しよう。

50年代中期に撮影されたTHE HOGとそれに跨るスタンの勇姿。自身がデザインして削り出したシリンダーバレルと、独立ポートを備えたスペシャルヘッドが確認できる。キャブは4輪用か。

走行毎に仕様変えた"走る"実験室「THE HOG/H-D DRAG STER by STAN DISHONG」

 ヴィンテージ・ドラッグバイク好きの間でスタン・ディションと聞いて真っ先に思い浮かぶのは、THE HOGと呼ばれるレーサーだ。1958年のパンヘッドがベースだが、幾度となくスタンが手を入れた結果、もはやその原型は見当たらず。ヘッド/バレル/フライホイールを独自の理論に基づき設計、自ら鋳造したというワンメイクパーツが見所である。

 ちなみにフレームは1946年式H-D Genuine改だ。蛇足だが、スタンの兄弟は原子爆弾の開発にも関わっていたLivemore Labs.という研究機関の職員だったが、THE HOGに組み込まれたシリンダーバレルはなんと原爆用に開発されたと言われる特殊鉄材から削り出されている。

 コレクターLouie Fisherの自宅の広大な庭先で撮影した最終形態のTHE HOGには、Bus Schalerとの共同開発によるOHC=オーバー・ヘッド・カム機構が見られる。このデザインはプッシュロッドやリフターに変わり、ヘッド部に配されたダブルローブカムをチェーン駆動させ、4本のバルブを制御する、当時はまだ最先端の機構で、96ciまでスープアップさせた大排気量は、インジェクションと2速のみのトランスミッションで調律される。かくしてTHE HOGは1950〜60年のドラッグストリップで優れたパフィーマンスを誇り、1968年まで活躍したという。
 1958年の西海岸チャンピオンシップで優勝。かのLions Dragstripにおいてガソリン車クラスで1/4マイルを127mph、1/2マイルを147mphを記録している。
 レース毎に細かく仕様を変えたというTHE HOG。それはスピードの求道者の走る実験室だった。

1946年製の H-D純正リジッドフレームに、リアレグとロッカーを固着した改造スプリンガーを装備。さらにハンドルバーもダイレクトマウント!フロント21インチのDunlopは2.75サイズのタテ溝、リアは16インチのドラッグスリック。スピードスターの極致!

円筒形状のアルミタンクはフューエル/オイルでセパレートされる。申し訳程度のシートとタンク上のチンパッドもドラックスターの証。ポリスシフターと同じ機構のか細いシフトレバーにも注目されたし。これにほぼ寝そべる形でハーフマイルを走り、147mph=時速236.6kmhというとんでもない記録が残されている。

ドラッグスリックを履いた世界初の2輪車「1937 INDIAN SCOUT/DRAG STER “THE BURP” by STAN DISHONG」

スタンがTHE BURPと呼んだ37 Scoutのドラッグスター。彼はこの1台でレースに負けたことがないと語っていたという。フューエルタンクは工事現場で見かける鉄板を張り合わせたような棺桶形で愉快な遊び心を感じるが、内部はガス/オイルのセパレート構造。少々重そうだがさにあらず。その実アルミ製。

 50sドラッグレースのアイコンTHE HOGがスタンの代表作であることに疑いはないが、このレジェンドの軌跡を語る上で避けて通れないのがご覧の1937 Scoutだ。このIndianなくしてTHE HOGはなかったと言えるほど、若かりしスタンが紡ぎ出した独創的なスピードレシピがいたるところに見て取れる。
“THE BURP”=げっぷという異名を持つこのレーサーは排気量62ci=約1000ccで、そのトップスピードはアベレージ108mph〜118mphだったという。戦後使われなくなった地元の滑走路上で行われたゼロヨンでは敵無しで、このドラッグバイクの活躍によりスタンの名声は知れ渡ってゆく。当時ドラッグストリップでスタンがこのScoutをピックアップトラックから下ろすと、他のレーサーは走る前にそそくさと撤収して帰ってしまったという逸話も、突出したポテンシャルを代弁する。
 その圧倒的な速さの秘訣は無論エンジンで、Big Base ScoutのトップエンドとChiefのボトムを組み合わせたハイブリッド。排気量は74ciまでホップアップされ2機掛けのスペシャル・リンカートで調律される。
 多くの勝利を勝ち取ったTHE BURPだが、この名作に関してつとに有名なのエピソードといえば、2輪用のスリックタイヤを世界で初めて履いたことだろう。1953年にスタンはドラッグレース用のスリックタイヤをタイヤショップにカスタムオーダーしたレシートが残されている。同じ仕様を異なる店に注文しており、より質の良かった方を装着したと推測される。完璧主義者のスタンの性格を垣間見る秘話だ。
 そのスリックタイヤを装着したTHE BURPは、1954年にWintersのハーフマイルストリップで行われたナショナルレースで優勝を獲得! 当時まだ25歳だったStan Dishongだが、この勝利を端にその名を全国区へ轟かすのである。

軽量化の“スピードホール”もスタンの代名詞。独自設計のスピードシフターにも刮目せよ。スタンが手を下すことの全てには理由があった。レース活動の期間は1947〜1958年まで、1954年にはナショナルチャンピオンシップで優勝。1/4マイルの最高は11.5秒、トップスピードは118mphだった。

フロントはBSAの18インチホイールにAvonのタテ溝、リアは史上初の2輪用スリックタイヤで、これは極めて希少な歴史遺産。スリックにも関わらず申し訳程度の横溝が入るのは、2輪用スリックの前例がなかったタイヤ屋の、気休めの安全マージンだった。右の2枚のレシートはスタンがこのスリックをオーダーした1953年の実物。

LOUIE FISHER(旧車コレクター/AMCA会員)一代でコンクリートの会社を築き上げた叩き上げの男で、休日は趣味の旧車イジりに余念がない。AMCAに所属するルイはヴィンテージバイクのコレクターで、その数30台超。特にドラッグレーサーに目が無く、スタンの2台をこよなく愛している。生前のスタンにも二度会っているという。

Photographs & Text:Ken Nagahara
媒体:ROLLER magazine vol.27

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