2019.01.08

大人の趣味の為のライフスタイルマガジン「IN THE LIFE(イン・ザ・ライフ)」

ウルフスブルグ製では現存最古、これがポルシェ博士の夢見た国民車の姿。

1934年、フェルディナンド・ポルシェ博士が提唱した理想の国民車。ドイツ国総統アドルフ・ヒトラーのバックアップを受け、国家プロジェクトに発展し、1939年のベルリン・モーターショーで華々しいデビューを果たすことになる。ポルシェ博士が完成させた国民車に、ヒトラー総統は「KdF-Wagen」と命名した。

 1939年ベルリン・モーターショーで華々しいデビューを果たすことになる「国民車:フォルクスワーゲン」。

 現在のウルフスブルグ、ファラースレーベンの近くに国民車を生産する工場が建設され、ヒトラー総統はこの地をKdFシュタット(市)、そしてポルシェ博士が完成させた国民車にKdF-Wagenと命名した。KdF-Wagenは現金での購入は出来ず、ドイツ労働戦線(DAF)が全てを取り仕切る貯蓄販売方式がとられた。購入希望者はまずDAFの組合員となり、毎週の給料から5RM(ライヒスマルク:当時の通貨)ずつ天引きされ、その際に発行される証書を貯蓄帳に貼り、990RMに達したら車両が引き渡されるというものであった。当時KdF-Wagen購入希望者は30万人に達したという。

 しかしドイツの国民車としていよいよ生産準備も整いかけていた1939年9月、第2次世界大戦が勃発。KdF市のVolks wagen werkではKdFWagenではなく軍用車キューベルワーゲンの生産で占められることになり、国民車構想は幻想となってしまった。しかし、そんな中でも1941年に入るとごくごく少量であったが本来の主役であったKdFの純粋なる乗用モデル、Type60の生産が始まる。

 現車はKdF市(現ウルフスブルグ)のVolkswagen工場からラインオフしたビートルとして、現存が確認されているものでは最古の一台である。フロントトランクのスペアタイヤエリアに打刻されているボディナンバーは「20」。Type60の生産が始まったのが1941年なので、最初期に生産された一台なのだ。

 チェコから2015Bad CambergにエントリーしたオーナーのOndřejBromが現車をプラハ郊外で入手したのは1997年のこと。当時Ondřejが現車を発見した際、戦時中に生産されたType60であることに確証は持っていたが、ボディの傷みも酷く、ボディナンバーの確認にまで気に掛けていなかった。数字の2と0は確認できていたが、恐らく120または200〜209。つまり1942年に生産されたKdF-Wagenであると思っていた。当時は4輪駆動車のType877レプリカを製作するために見つけたベース車程度にしか考えていなかったのだ。

 しかし、2011年のBadCambergで第2次世界大戦中のVWのパーツを製作するポーランドのWW2VW代表、Jacek Krajewskiと出会う。Ondřejは自分がType60をベースにType877レプリカを製作していることを伝えると、Jacekは「もう一度ボディナンバーを確認した方がいい」と念を押される。まさかと思いつつもOndřejはJacekをチェコへ招きボディを入念にチェックすることにした。そこでボディナンバーは「20」であることが判明したのだ。

 しかし、Ondřejはまだ確証が持てなかった。ボディナンバー「20」はKdFWagenとしては最初期に生産された個体で、ドイツの有名なオペレッタ作曲家のパウル・リンケに贈られた車両であるという記録が残っている。そんな車両が、なぜプラハにあったのか? しかしその謎はすぐに解けた。パウル・リンケは1943年にオペレッタ「ルナ夫人」公演のためにチェコスロバキアに長期滞在していたのだ。

 この期間中、リンケの自宅があったベルリンは大空襲に遭い、帰る場所を失い、リンケはそのままチェコスロバキアで終戦を迎えることになった。リンケは1946年にベルリンへの帰郷が叶うが、KdF-Wagenはチェコスロバキアに残されたのだった。記録によると1948年にプラハで売却されたということを突き止めたOndřej。すべての疑問とヒストリーの絡まった糸がほどけた瞬間であった。

スペアタイヤエリアのボディ構造は、後期モデルと大きく異なる。フロントエプロンの開口も大きい。スペアタイヤは3カ所ボルト留めされている。ガソリンタンク容量は僅か25リットルであった。形状はプロトタイプ時代のVW38/39と似ているが互換性はない。エプロンにはラバーストップも備わる。

現車は1941年の11月にウルフスブルグの工場をラインオフしている。エンジンはVW38/39と共通のスペックで985ccの23.5馬力。ボア70mm、ストローク64mmで、圧縮比は5.6:1。キャブレターは26VFIが採用されていた。クランクスタート用のサポートホールがバンパーを貫通するのは、1940年代後期のモデルとも異なる。

エンジンリッド中央にマウントされるライセンス灯が、ブレーキ灯も兼ねているのはスプリット世代共通だが、ハウジングの形状は全く異なる。エンジンリッドのプレスも異なっている。

ダッシュパネルにはラジオを納めることができるスペースが用意され、COGロゴが入る取り外し可能なブランクパネルが装着されている。速度計にもCOGロゴが入っている。

チェコからBad CambergにエントリーしたOndřej Bromは、世界最古のウルフスブルグ製ビートル、1941年型KdF-Wagenのレストアの全行程を全て記録しており、その模様を世に出すべく出版準備中だ。

KdF-Wagen Literatures

当時KdF-Wagen は現金での購入はできず、ドイツ労働戦線(DAF)が全てを取り仕切る貯蓄販売方式がとられた。ここでは当時の貴重な貯蓄スタンプ帳などを紹介しよう。

上は百数十ページに及ぶKdF-Wagenの取扱説明書だ。車両の部分ごとに細かく章が色分けされ、製本も非常に凝ったものだ。

エアクリーナーの洗浄、油差方法、電気系(ヒューズ)の清掃方法、インテリアのラバーマットの清掃方法など、細かなメンテナンス方法をイラストでわかりやすく解説している。

当時様々な種類のKdF-Wagenが用意されていたが、上のカタログに描かれる美しいKdF-Wagenのディテールをチェックしてみると、ライセンス/ブレーキライトやバンパーのオーバーライダーなどの形状から描かれている車両はプロトタイプのVW38/39であることが分かる。楽しいライフスタイルを想像させるKdF-Wagenのイラストはドイツ国民にもマイカー時代が到来すること期待させるもので、30万人もの購入希望者がいたという。

text & photo:Shin WATANABE 渡辺慎介
媒体:LetsPlayVWs 49

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