2019.01.23

大人の趣味の為のライフスタイルマガジン「IN THE LIFE(イン・ザ・ライフ)」

東京スケートシーン黎明期「グラウンド・ゼロ」vol.1

スケートシーンの黎明期には、表舞台で頑張るプレイヤー、または裏で支える者たちの存在がある。今回は、東京のスケートコミュニティにフォーカスしながらスケーター、スポット、ショップやフォトグラファーに焦点を当てて、日本のスケートシーンの礎を築いた面々そして新たな始まりを告げる新世代をご紹介する。

新たなスタンダードを打ち立てる 真のネクストレベル「堀米雄斗」

 日本のスケート史おいて、これほどまでの快挙を経験したことがあっただろうか。

 BLIND加入、BERRICSのNEXT NEW WAVEのオンラインパートTAMPA AMやSIMPLE SESSIONをはじめとするコンテストでの健闘そしてスケートメディアの権威、THRASHERでの特集記事の掲載。オールラウンドなスキルで世界の注目を集める堀米雄斗こそ、グローバルに活動する日本人スケーターの新たなスタート地点である。

Yuto Horigome/
1999年1月7日生まれ。東京都出身。テクニカル、ハンマーからトランジションまで何でも来い、のオールラウンダー。日本とアメリカを行き来する生活をしながら、スケートキャリアを重ねている。オリンピック日本代表選手の候補、また最も将来が有望な若手スケーターとして注目を集めている。

「今はアメリカと日本を行き来する生活を送っています。アメリカと日本と半分半分ですね」

 スケーターであった父親の影響でスケートに出会い、小学校低学年の頃に近所の公園で乗り始めたのがすべての始まりだった。それから足立区のスケートパークでミニランプを滑り始め、ほどなくしてから同パークのバーチカルへ移行。5,6年ほどバーチカルスキルを磨いていたところ、ストリートコースでコンテストが開催されることを知る。腕試しに出場したところ、ボロ負けをして苦渋を味わったのだという。そうして、本格的にストリートスケートを練習し始めることになる。そのような小学生が、その約10年後、日本国内だけでなく世界のスケートシーンを震撼させることになるとは誰が想像しただろう。

 ’90年代に岡田 晋や米坂淳之介が「Prime」や「Menace」に迎え入れられて以来の快挙といえよう。2016年、主にトランジションからスケートを始めた堀米雄斗が「Blind」のグローバルチームに迎え入れられた。Blindといえば、世界屈指のスキルフルなトップスケーターが在籍するカンパニー。生半可なスケーティングでは到底加入できない。堀米は、並外れたスキル、そして洗練されたスケートスタイルを持って、実力でその座を掴み取った。

 「カリフォルニアでフィルマーとして活動している友だちの家にステイしていたときに、Blindのライダーであるミッキー・パパも同じ家にステイしていて。それでたまたま一緒に撮影をすることになったんですよ。そのときに、結構いい感じのトリックがメイクできて……。そうしたら、ミッキーがチームマネージャーに話してみるって言ってくれて。結果的にかなり気に入ってくれてBlindに入ることになりました」。

 すでにステイ先の鷲見知彦と一緒に撮影を重ねていたところ、Blindの加入が決まったことでウェルカムパート制作のプロジェクトが始動。それから本格的な撮影三昧の日々が始まる。フライトを変更して帰国日をずらし、なるべく長くアメリカにステイしながら撮影を重ねた。帰国後も引き続き撮影の連続。当時の日々を振り返ると、「辛かったですね(笑)」のひと言。それもそのはず、自身のウェルカムパートで生半可なことはできない。それなりのプレッシャーがかかっていただろう。

 そうして、昨年7月に「Berrics」より、堀米のウェルカムパートが公開された。巨大なハンドレールやステアで目の覚めるようなトリックを連発し、バーチカルではマックツイストを難なく披露。もちろんノーパッド。そして、テクニカルトリックの数々で畳み掛ける。堀米の強みとは、このようなオールラウンドな対応力。しかも、そのすべてが優雅で華々しい。極めつけは、過去にロブ・デューデックが50-50をメイクした有名ハンドレールでのフロント5-0。誰もが知るスポットでトリックレコードを更新したことで、YUTO HORIGOMEという名が世界に広まっていった。

 「今はアメリカと日本を行き来する生活を送っています。アメリカと日本と半分半分ですね。ミッキー・パパの家とか、サンタモニカにあるWelcomeのチームマネージャーの家とかにステイしています。撮影がある日はずっと撮影している感じです。撮影を終えて夜9時とかに夕飯を買いに行くことがあるんですけど、LAは危ない人が多いですね……。スーパーでカートを持ったおばちゃんがめっちゃ叫んでいたりとか(笑)。たまに追いかけられたりもします。超怖かったですね(笑)」

 そのようにして、スケートの本場であるカリフォルニアの洗礼を受けながら、誰もが夢見るようなスケートライフを謳歌している。海外の一流ブランドに所属し、極上のオンラインパートを披露した。しかし、堀米の快進撃はそれだけでは終わらない。この男を語る上で外せないのがコンテストという存在。昨年11月にフロリダ州で開催されたTAMPA AMでは4位という好成績を残している。

 堀米のスケートとの出会いはトランジションから。小学校低学年からバーチカルスキルを磨いてきた。ノーパッドでいとも簡単にマックツイストを決められるのも納得できる。そんな小学生も現在18歳。Blindに加入し、アメリカでチームメイトのミッキー・パパらとともに撮影する日々を送っている。

「テレビに出ることは増えましたけど、いつか本田 翼に会えればいいなという感じですね」

一番上のボタンだけを留めてコーチジャケットを羽織るのが最近の掘米スタイル。Simple Sessionではこの風貌で2位という好成績。

 自身が所属するBlindの国内正規代理店「Advance Marketing」のDIYパークにて。ゆうゆうとリップを越えてテールをバッシュするボディジャー。宙に浮かぶシルエットが優雅。

アメリカ文化に心を奪われた男。カルチャーとしてのスケートボード。「大瀧浩史」

 日本におけるスケートチームの先駆けTOKYO SKATESを発足したのが1984年。いつしかそれは名をT19に変え、スケートブランドとして日本のスケートコミュニティの最先端を走り続けてきた。
 
 そんなT19のディレクターを務める男、大瀧浩史のスケートカルチャーに突き動かされた半生を振り返る。

Hiroshi Otaki/
1966年生まれ、東京都出身。’84年に仲間たちとTOKYO SKATESを結成後、ドメスブランドの先駆けであるT19として活動。’87年にはヴェニスビーチに飛び、悪名高きDOGTOWNに従事。現在はスケートカルチャーに魅了されたひとりとして、T19を運営しながら変わらずスケートボードを堪能している。

「オリンピックの金メダリストが"今の喜びを誰に伝えたいですか?"と聞かれたときに"お父さんとお母さんです"とは絶対に言ってほしくない」

 ’86年撮影、原宿のシェイキーズにて開催されたAJSAのパーティにて。写真左から、STUSSYのマイケルモデルの元になった細渕 満、ヴェニスビーチの素晴らしさを教えた故・大野 薫、大瀧浩史、三野達也。

 30年以上もの歴史を誇るドメスティックスケートブランド「T19」のボスを務める大瀧浩史。スケートに出会ったのは’70年代半ば。ちょうどスケートボードがアメリカから日本に上陸した時代。ムーブメントまでとはいかないが、世間的にスケートボードという存在が広まり始めた頃の話。

 「思い返すと、うちは親父がアメリカ文化好きで、洋楽を聴いたりエルヴィス・プレスリーのポスターが貼ってあったりするような家だった。当時は外国といえばアメリカだったから、そのイメージが頭に染み付いていたのかな。小学生の頃に、上野の『二木の菓子』で初めて買ったスケートボードもスターズ&ストライプスの柄だった。"同じアメリカという国からやって来たもの"と認識して、憧れ的なものがあったのかもしれない」

 スケートに本格的にハマったのは中学生になった頃。『POPEYE』誌に掲載されていた、アキ秋山を見たことが決定的なきっかけとなったのだという。そして高校生になると、若者文化が盛り上がりを見せていた渋谷・原宿エリアへと出ていくようになり、クールなスケートをしている面々と出会う。その頃はスケートパークが全盛だった

 ’80年代初めからスケートのブームが急降下して消滅しつつあった時代。そんな落ち込んだ時代にアメリカはSFで『Thrasher』誌が立ち上がり、パンクやストリート、いわばアンダーグラウンドなものが間違っていないということことを提示した。

 「当時は東京でも大きいスケートパークが閉鎖してしまった。だからストリートでやるしかなかったんだ。それがカッコイイんだと自信が持てたのは、『Thrasher』のおかげだった。その頃は、もうデッキを持って電車に乗ることが世間的にダサいとされていたんだよ。だけどオレらは、それまでになかったストリートというものの虜になっていたから、自信満々でデッキを持っていたね」。

 ブームが去ったことでスケーター人口が激減した。それでもスケート熱は冷めることなく、ごく少人数のグループで渋谷、原宿、新宿といった街でスケートを続けていった。そのような状態で同志たちと毎日過ごしていると、何かを始めようという気になるものかもしれない。そうして、’84年に「TOKYO SKATES」、後のT19が発足。当時のメンバーは、大瀧浩史、SKATETHING、三野達也、ニーヤンこと二瓶長克、山田テツヤなど。

 アメリカ文化への憧れ。とりあえず当時はそれしかなかった。アメリカのファッションやトリックを取り入れ、同じような環境を東京で作ろうとしていたものの、やはり現地に足を運ばなければ話にならない。当時、LAにいたアキ秋山を頼りに単身アメリカに渡り、彼がいるとされた場所に勝手に押しかけ、怒鳴られて蹴飛ばされたことも。そのような経験を経て、’87年に絶大的なリスペクトを集めた「DOGTOWN」のホームであるヴェニスビーチへと飛んだ。

 そのきっかけは大瀧が高校生の頃、すでにヴェニスビーチに通っていた「Betty’s」の大野 薫が現地で撮ってきた映像。そこにはエリック・ドレッセン、アーロン・マーレー、ティム・ジャクソンやジュリアン・ストレンジャーらの姿が映っていた。ウォールライドなどをして壁で遊ぶ若者たち、という日常の風景。それから湘南にあった通称"グラバー邸"と呼ばれた大野宅にて、住み込みでスクリーンプリントの技術を学ぶようになる。さらには「DOGTOWN」の創立者ジェームス・ミュアーと親交の深いヴェニスビーチ在住の白瀬イズミを紹介してもらい、口を利いてもらってDOGTOWNでシルクスクリーンの職を得ることとなった。

 「ヴェニスに着いた次の日から、DOGTOWNで働くことになった。毎日Tシャツとデッキにシルクスクリーンをしながら生計を立てていた。イズミさんの家には2か月ほど居候させてもらっていたんだけど、そのあとアーロン・マーレーとパット・ノーホーの弟と3人で、一軒家をシェアすることになったんだ」

当時、住んでいたのは7th&サンファン。危険な一帯で、ピザを頼んでも持ってきてくれないようなエリアだった。住んでいた家のブロックの角にはクラックの売人がいるような環境。もちろん、銃声が聞こえることもしばしば。

 「ヴェニスでの滞在は本当に濃かった。現地のヤツらと生活することでいろんなことを経験することができた。オレはスケートのスキルを学びたかったわけじゃない。そこになぜスケートボードがあり、音楽があり、サーフィンがあったのか。それが不思議でたまらなかった。そのライフスタイルを体感できた1年だった。映画とかで見るDOGTOWNのプール事情は美化されているけど、実際は違う。どうでもいいプールを滑り倒す感覚。今あるものをとにかく滑るというスタイルだった。こういう日常を送っているから違うんだな、と肌で感じることができた」。

 そして帰国後数年、アキ秋山の弟であるカツ秋山に拾われて「Be’-In Works」に入社。そこで、ともにベアリング、ビスやデッキといったオリジナルのアイテムを手がけるようになる。その流れで、T19はスケートブランドとしてアイテムをリリースすることになっていく。

「元々、(尾澤)彰とサルーダは、T19ではなくBe’-In Worksのデッキに乗るライダーだった。T19がブランドになったのは’90年代。それからJESSE、CHAKA、(田中)健太郎とかが一気に集まってチームができた」。

 初期のBe’-In Worksのボードグラフィックは手描きの和柄。それからT19としてさらに洗練されたグラフィックが採用されていく。

「当時はSKATETHINGがGood Enoughで働き始めてappleコンピューターを初めて手に入れた頃だった。そこで、みんなでGood Enoughの事務所に毎晩のように集まってイラストレーターでの作業を見守るわけ(笑)。そこに(藤原)ヒロシくんをはじめ、(高木)完さん、TET(西山 徹)、滝沢伸介とか、あの辺の原宿で活躍していく人たちがいたんだ。たぶん、そこから同時期にみんな各々のブランドを始めていったんだと思う。とにかくヒップなことが好きだった。だからそういうものをデザインに取り入れたし、NYからの情報もいち早く入ってきていた」。

 当時は、原宿にすべてが集約されていた。さまざまな才能がひとつのエリアを拠点とし、それぞれの事務所を行き来しながら情報を共有していた。そして、次から次へと新しい何かが発信されていた。このような、非常に面白い時代にT19はブランドとして新たに始動した。デッキやウィールといったハードグッズからアパレルまで、幅広いアイテム展開を行いながら、国内のスケートコミュニティの最先端を走り続けた。日本人ライダーをアメリカのコンテストに送り込んだのも、特筆すべきだ。ちなみに尾澤 彰は、’93年にSFで開催されたBack to the Cityで14位、ヴェニスビーチのPSLでは9位という好成績を残している。

「振り返ると、まずはアメリカに憧れてヴェニスビーチに行き、帰国して東京で何かを始め、それをアメリカに見せに戻った。個人的にはそこである意味完結しちゃっているのかもしれないね」。

 今後の活動としては、T19を運営しながら、より良いスケート環境を作っていきたいと話す。スケートパークを増やすといったことだけでなく、スケートボードをカルチャーとして捉えることも含めて。それは、ヴェニスビーチのDOGTOWNという、最もスケートカルチャーが凝縮した場所で過ごしたからこそ。そんなスケートボードも時代とともに大衆に広まり、2020年には東京オリンピックで正式種目となる。

 「これはよく言っているんだけど、オリンピックの金メダリストが"今の喜びを誰に伝えたいですか?"と聞かれたときに"お父さんとお母さんです"とは絶対に言ってほしくない。オレの中にはそんなスケートボードはないからさ。まあ、だからどうってことないんだけどね(笑)」

 かつて清瀬市にあったスケートパークにて、しっかりとコーピングを掴みボウルで魅せるインバート。上野にあったスケートショップMAX MOTIONに国産のAir Trucks。’85年当時の日本のスケートシーンが蘇る。

ドメスブランドの先駆け、T19初期の貴重なアイテム群。

1991 Be-In Works Team Model/
’91年にリリースされたBe’-In Worksのデッキ。ボードグラフィックに採用されたのは、大瀧浩史の手描きによる和柄のデザイン。手作業でのシルクスクリーンでスリックボトムもラインナップされ、尾澤 彰やサルーダがライダーとして乗っていた。

2002 T19 I-5South Team Model/
T19といえばこのグラフィックを連想する人も少なくないだろう。モチーフはテニスプレーヤーのジョン・マッケンロー。手掛けたのはシェパード・フェイリーと、ペースティングをしていたアーティスト、カザマ・ナオミ。

1992 T19 Akira Ozawa Pro Model/
’92年にリリースされた尾澤 彰のシグネチャーモデル。T19初のプロモデルとなった貴重な1枚。ヴェニスビーチで開催されたPSLコンテストに出場した際、『Big Brother』誌に同氏の写真が掲載されたのを、今でも鮮明に覚えている。

2001 T19 Yoshifumi Egawa Pro Model/
Yoppiこと江川芳文のシグネチャーモデル。洗練されたボードグラフィックを担当したのは藤原ヒロシ。ストリートカルチャーが凝縮し過ぎて、開いた口が塞がらないとはこのこと。

1994 T19 Akihiko Nishimura Pro Model/
Akeem the Dreamこと西村明彦のシグネチャーモデル。’90年代にはアンディ・ハウエルが手がけるSophisto Clothingに所属し、同ブランドの『Freedom』にも出演。まさに時代の先を行き過ぎたスケーター。

カメラ:Tomonori TANEDA、Junpei ISHIKAWA、Yoshiro HIGAI
テキスト:Masafumi KAJITANI
媒体:SLIDER vol.30

NEWS of SLIDER

ARCHIVES

RANKING

POPULAR TAG

NEWS

SEARCH