2018.04.18

大人の趣味の為のライフスタイルマガジン「IN THE LIFE(イン・ザ・ライフ)」

10年で市販車クラス最強を達成した、幻のバイクブランド「Crocker」

天才技師アルバート・クロッカー、その伝説の光と影。

1936 CROCKER Serial #8 “Small Tank”/WHEELS THROUGH TIME

 東海岸出身のAlbert Crockerは大学を卒業する際、3度のメシより好きだったバイクと機械いじりを活かすべくAurora Automatic Machine Companyに入社、モーターサイクル・デヴィジョンに籍を置き設計/開発に従事するエンジニアとなった。無類のレース好きだった彼は自らエンデューロレースに出走し結果を残していた。
 
 アルバートはあるレースでIndian Motorcycle社の当時のプレジデントとチーフエンジニアに出会う。彼らに気に入られたアルバートは、その直後よりIndianのエンジニアとキャリアをスタートさせる。
 
 1911年、アルバードはIndian社のコロラド州デンヴァー支部にて、不慮の事故でこの世を去ったボードトラックレーサーEddy Hashaの未亡人Gertrude Jefford Hashaと運命の出会いを果たし、1924年に結婚。同年カンザスのディーラーを任されたアルバートは、その店をアメリカ・ミッドウエストのIndianの販売拠点に成長させた。
 
 その後クロッカーファミリーは西海岸へ移住。アルバートは新天地のLAで地元では名の通るFreed Indianというディーラーを買い取る。そのショップで生業のバイクの販売業を再開するが、同時に彼はある夢のプロジェクトをスタートさせる。
 
 その夢はズバリ“無敵のレーサー”の開発であり、アルバートはそれを実現するため、名うてエンジニア/デザイナーだったPaul Bigsbyをその構想に引き入れる。2 人は本業が終わると夜な夜なガレージに籠り、夢のレーサーの開発に勤しんだ。1931年にプロトタイプを完成させダートトラックに送り込む。
 
 排気量500ccのOHVシングルシリンダーはスピードウェイで突出した戦闘力を発揮、すぐさま西海岸のスピード狂たちのお墨付きを得る。そこでアルバートは計30台のレースバイクのオーダーを得たのである。
 
 その後アルバートはディーラーを売り飛ばし、オリジナルレーサーの製作拠点としてダウンタウンLAのVenice BLVD.沿いの小さな工場をレント。かくして1932年、世界二輪史上でも屈指のカルトカンパニーと評されるCrocker Motorcyclesが誕生する。1936年に世に送り出された“Small Tank”と呼ばれるこのモデルは、“HEMI”と呼ばれる排気量1000ccの初期Vツインモデルで、Crockerの中でも特に稀少とされる。さらにこのHEMI Crockerは当時のライバルであるIndianやH-Dのトップモデルが40HP程度だったのに対しMAX60HPを誇り、“市販車クラス最強”という名声を獲得している。
 
 参考までに、その後アルバートは1939年に排気量1491ccのよりホットな“Big Tank”を開発したが世界大戦の影響は避けられず、1942年にCrocker社はその短い歴史に終止符を打つ。同社は約10年の間で50機のSpeedway Racerと100台ほどのVツインモデル、あまり知られていないが“Scootabout”というモペットも50台ほど製造したと言われている。

V型45度バンクOHV HEMIエンジンは標準仕様のボア3.25"×ストローク3.62"=61ciで55~60馬力を発生、車重218kgのマシンの最高速は180km/hに達した。かくして“市販車最速”を誇った“Small Tank”のデビューは1936年、いみじくもH-D初のOHVモデルKnuckle Headと同年だった。参考までH-D E/ELが380ドルで販売されたのに対し、Crockerは500ドル~と高額ながら、数種のヘッド形状と1000~1490ccの排気量を含め細かなオーダーが可能だった。名うてのレーサーと一部のセレブのための、コストを度外視したドリームマシンだ。

どこを撮っても絵になるCrockerだが、セパレート式のフューエルタンクも見所。なんとアルミ鋳造にて製作され、右オイル/左ガソリンというレイアウト。スピードメーターはCORBIN製。さらにこのハンドルバーの美しさたるや!

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