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2020.08.13

トヨタ2000GT 誕生物語 その①「トヨタ車、第1回日本グランプリ全種目で優勝!」クラシックカー・コンプリートファイル・トヨタ2000GT

メカニカル視点でトヨタ2000GTの2年間に渡るレストアを収録し考察した書籍「クラシックカーコンプリートファイル TOYOTA 2000GT」から、トヨタ2000GT誕生物語を抜粋してお届け。初回は2000GT誕生の経緯にスポットを当てる。

 レースが育てたモータリーゼーション

トヨタ自動車のスポーツカーには、大衆車パブリカのコンポーネンツ(水平対向空冷2気筒)を用いて、系列会社の関東自動車工業(関東自工)で試作を進めていた“ パブリカ・スポーツ” があった。

これは、1962 年の“ 全日本自動車ショー” でスタディモデルが公開された後、1965 年に発売された“UP15 型トヨタ・スポーツ800” のベースとなったモデルだった。

ただ、このUP15型トヨタ・スポーツ800は、スタディモデルと同様の水平対向空冷2 気筒のU 型エンジンを搭載しており、790㏄の排気量から45ps/5400rpm、6.8㎏ -m/3800rpmを発揮するヨーロッパのバブルカーに近いスペックだった。
 
この当時、トヨタ自動車はすでにRS4 ♯型二代目クラウンを発売しており、最多量販車のRT4 ♯トヨペット・コロナは月産3 万台を販売する我が国トップの“ 乗用車生産会社” であった。

そのトヨタ自動車のイメージリーダーカーとしては、トヨタ・スポーツ800 はすべての面で役不足だった。このため、輸出市場はもちろんレースフィールドでも大きな改造を施すことなく、ライバルたちと互角に戦える性能を有する、本格的なスポーツカーの開発/ 発売が急がれていた。


 
当初、トヨタ自動車は“ トヨタ・スポーツ800” と同じく、関東自工に生産委託する予定で、その計画をスタートさせているが、折よくヤマハ発動機からのプレゼンもあって、開発/ 生産体制が大きく変わっている。

いっぽうで、モータリーゼーションへの関心事の萌芽としてインパクトが大きかったのが、1963 年5 月に鈴鹿サーキットで開催された第1 回日本クランプリだった。当日、鈴鹿サーキットを埋め尽くした群衆の熱気と、その事前の盛り上がりは、我が国にも本格的なモータリーゼーションが芽生え、近い将来、欧米のように発展していくことを予感させるに十分なものだった。
 
この日、鈴鹿サーキットを激走したヨーロッパ製レーシングマシンと日本製のそれとの間には技術的に大きな隔たりがあった。また、そのマシンを操る欧米のレーシングドライバーと日本人のレーシングドライバーとの間にも、高速でクルマを制御するレーシングテクニックで、大きな差があった。

救いは、当日レースにエントリーした日本の自動車メーカーはレーシングスピードにまだ馴染みがなく、高回転を長時間維持することや制動力コントロールなどのノウハウがほとんどなかったことから、伸び代が明確化したことだった。また、どの自動車メーカーも四輪のワークスドライバーという存在は稀有で、二輪ライダーと掛けもちで、なんとか頭数を揃えたというのが実態であった。
 
レースに勝てばクルマが売れる


 
トヨタ自動車はこの第1回日本グランプリで、パブリカがC-2 クラス(400 ~ 700㏄)、コロナがC-5 クラス(1300 ~ 1600㏄ )、クラウンがC- 6 クラス(1600 ~1900㏄ ) に出場している。そしてラッキーなことに、その全クラスで優勝している。グランプリ決勝日の翌日の朝刊に掲載した“ トヨタ車、出場全種目に優勝” という大々的な宣伝広告は販売台数アップに大きく寄与した。
 
トヨタ自動車はレースでの完全優勝を謳った宣伝広告がセールスに大きく貢献することを知り、翌年のグランプリへの“ 投資” を倍増するべく動いたが、第2 回日本グランプリに向けて、もっと真剣に取り組んでいたのが、惜敗したプリンスと日産で、その意気込みはトヨタ自動車を圧倒するものだった。

クラシックカー コンプリート ファイル TOYOTA 2000GT(2020年9月1日発売予定)より抜粋

文:野澤一幸 写真:奥村純一

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